2002年に開催された日韓ワールドカップは、今でも多くの人の記憶に残る特別な大会ですよね。日本が初めて自国でW杯を迎えた年でもあり、史上初の“アジア開催・共同開催”という前例のない試みが行われました。
日本代表はグループリーグを1位で突破し、ついにベスト16へ。韓国代表は強豪を次々と破り、アジア勢として初のベスト4入りを果たすなど、アジア全体が大きく注目を集めた大会でもあります。
一方で、招致の裏側にはFIFA内部の政治的な駆け引きがあり、チケット販売の混乱や誤審問題など“影”の部分も決して少なくありませんでした。あの年に何が起きていたのか、表も裏もまとめて振り返ると、当時の空気がより立体的に見えてきます。
この記事では、共同開催へ至る経緯、会場や運営の舞台裏、大会の結果、そして議論を呼んだ出来事まで、ひとつずつ丁寧に整理していきます。サッカーが好きな方はもちろん、「平成の大きな出来事を学び直したい」という方にも楽しんでいただける内容になっていますよ。それでは、一緒に当時の熱気を思い出していきましょう✨
共同開催が決まるまでの流れ

日本と韓国、それぞれの招致活動
2002年大会は、実は最初から“共同開催”が予定されていたわけではありません。日本は1980年代後半からいち早く招致へ動き、アジア初のW杯実現を目指して丁寧に準備を進めていました。
ところが、1993年になると韓国も正式に立候補を表明します。「南北朝鮮での共同開催案」を打ち出すなど、国際社会へのインパクトを重視したアピールで一気に存在感を高めました。ここから、日本と韓国による“アジア初”をめぐる招致合戦が一気に加速していきます。
FIFA内部の政治が動いた日
開催地は本来、FIFA理事会での投票によって決まる予定でした。しかし当時のFIFAは、アヴェランジェ会長派と欧州勢の対立が激しく、票読みが極めて難しい状況にありました。
そんな中で浮上したのが、まさかの「日韓共催案」です。アヴェランジェ会長が政治的な混乱を避けるために急遽提案したものとされ、これはW杯史上はじめての“共同開催”という前代未聞の判断でした。
日本側は当初、単独開催を望んでいましたが、共同開催を拒めば「韓国単独開催になる」と判断され、やむを得ず共催を受け入れることになります。こうして1996年、W杯史上初となる日韓共同開催が正式に決まりました。
大会呼称をめぐるすれ違い
共催が決まったあとも、国名の表示順や公式表記については何度も議論が重ねられました。最終的には「Korea/Japan」が公式表記となりましたが、のちに政治的な問題から両国の主張がぶつかり合い、FIFAは国名を省略した「2002 FIFAワールドカップ」という表記に一本化することで落ち着きました。

招致から開催決定までのプロセスはまさに“波乱含み”。表向きの華やかさとは裏腹に、多くの交渉と政治判断の積み重ねで成り立っていたことがよく分かります。
日韓ともに苦しんだ準備と運営の裏側
韓国、アジア通貨危機でスタジアム建設がストップ
共同開催が決まったあと、特に大きな課題となったのが韓国側のスタジアム整備でした。1997年にアジア通貨危機が発生し、韓国経済は深刻なダメージを受けます。この影響で、W杯用スタジアムの建設が一時中断してしまうほどの状況に陥りました。
日本側は国際協力銀行(旧・日本輸出入銀行)を通じて2億ドル規模の融資を検討しますが、最終的に韓国政府が辞退。そこから数年、韓国は自国の力で工事を再開し、なんとか本大会までに全会場を完成させました。
表向きには華やかなスタジアムですが、その裏には国を挙げた大規模な財政調整と苦しい判断があったのです。
日本の会場選定は“争奪戦”に
一方の日本は、当時から世界トップレベルのスタジアム整備を計画していました。しかし、共同開催が決まったことで日本国内での試合数が大きく減り、広島・愛知・新潟などの地方都市で「どの会場が採用されるか」をめぐる熾烈な争いが起こります。
- 広島:スタジアムの改修案が規定に届かず落選。
- 愛知:最終選考で新潟に敗北。
- 横浜:最大収容人数とアクセスの良さから決勝会場に決定。
この結果、日本側は10会場(札幌、宮城、茨城、埼玉、横浜、静岡、新潟、大阪、神戸、大分)が採用されました。今では“W杯仕様”として知られるこれらのスタジアムですが、完成するまでの道のりは決して平坦ではありませんでした。
キャンプ地誘致は全国的なムーブに
各国代表の滞在先となるキャンプ地も、全国で誘致ブームが起きたイベントのひとつです。自治体は「観光PRの大チャンス」として積極的に手を挙げ、国内外で大きな話題を集めました。
中でも印象深かったのは、次の3チーム。
- イタリア代表:宮城県・仙台市に滞在。地域全体が“青い熱気”に包まれました。
- イングランド代表:兵庫県・津名町が招致に成功。ベッカム人気で報道陣が殺到。
- カメルーン代表:大分県・中津江村が話題に。小さな村に世界のスターがやって来るという特別な時間となりました。

こうしたドラマの積み重ねが、大会全体の雰囲気をさらに盛り上げ、日本全国を巻き込んだ“お祭り感”に繋がっていきました。
予選と組み合わせ抽選のポイント
オランダがまさかの予選敗退、中国は初出場へ
2002年大会の予選では、世界中で意外な結果が続きました。中でも大きな話題になったのが、ヨーロッパ予選でオランダが敗退したこと。ベルカンプやクライファートらタレントを揃えながらも、本大会には参加できませんでした。
一方でアジアからは、中国がついに悲願のW杯初出場を掴みます。サウジアラビアとともにアジア枠を勝ち抜き、アジアの注目度が一気に高まった瞬間でもありました。
シード国は「日本・韓国・フランス+5強豪」
本大会は開催国の日本と韓国、そして前回優勝国のフランスが自動的に本戦へ進出。これに加えて、ブラジル、アルゼンチン、ドイツ、イタリア、スペインの5か国がシード扱いとなりました。
当時のFIFAランキングや過去3大会の成績を反映した公平な基準が採用され、これによって各グループの“強豪の偏り”をある程度防ぐ狙いがありました。
釜山で行われた組み合わせ抽選会
抽選会は2001年12月、韓国・釜山のコンベンションセンターで開催。華やかさの裏で、国際大会ならではの細かなルールが決められていました。
- フランスはA組、韓国はD組、日本はH組に事前決定。
- A~D組は韓国、E~H組は日本で試合実施。
- アジア勢は偏らないよう、韓国側・日本側に2か国ずつ振り分け。
- ポットごとに順番にA→H組へ配置。
この結果、A組とF組に強豪が集中し、メディアからは「死の組」と呼ばれるほどの激戦区が誕生しました。とくにF組(アルゼンチン、イングランド、スウェーデン、ナイジェリア)は実力国ばかりで、当時のファンの間でも強烈な印象を残しています。

こうした抽選の流れを理解しておくと、当時の試合結果や波乱の背景がぐっと分かりやすくなります。
もっと深く“戦術的に”サッカーを楽しみたい方へ
グループ抽選やシード国の仕組みを知ると、試合の見え方が少し変わってきますよね。「このチームはどんな戦い方をするの?」「なぜ強豪が負けることがあるの?」といった疑問も、戦術を知ると驚くほどスッキリ整理できます。
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大会本番:日本・韓国・世界の波乱を整理
日本代表は歴史的なベスト16へ
日本代表は、トルシエ監督が築いた「フラット3」を軸に、組織的でスピード感のあるサッカーを展開しました。ベルギーとの初戦は2-2のドロー。続くロシア戦では稲本潤一選手のゴールで勝利し、日本中が大きな歓声に包まれました。
最終戦のチュニジア戦でも安定した試合運びを見せ、1位通過が決定。大会前の予想を超える快進撃で、初のベスト16進出をつかみます。
ラウンド16では強豪トルコと対戦。惜しくも0-1で敗れてしまいましたが、日本サッカーの成長を世界にアピールした大会となりました。
韓国代表はアジア勢初のベスト4へ
韓国代表は、ヒディンク監督のもとフィジカル強化とプレス戦術を徹底。初戦のポーランド戦で2-0の勝利を収めると、そこから勢いに乗って大会の台風の目となりました。
グループリーグを首位通過し、決勝トーナメントではイタリア、スペインといった強豪に勝利。判定をめぐって議論はあったものの、韓国のハードワークと攻撃的スタイルは世界に強烈な印象を残しました。
波乱続出のグループリーグ
今大会は「えっ、あの国が?」と驚く結果が次々と起きたのも特徴です。
- フランス:開幕戦でセネガルに敗れ、まさかのグループ敗退(無得点)。
- アルゼンチン:“死のF組”で苦しみ、グループリーグで姿を消す。
- ポルトガル:スター軍団ながら韓国・アメリカに敗れて敗退。
強豪が次々と姿を消す一方で、トルコ、アメリカ、セネガルなどが台頭し、予想のつかない展開が続きました。
ブラジルが5度目の優勝を飾る
決勝戦は横浜国際総合競技場で行われ、ブラジルとドイツが激突。ロナウドが2得点を決め、ブラジルが通算5度目の優勝を果たしました。

特にロナウドは、1998年大会の不調から完全復活を遂げ、8ゴールで得点王に。今でも語り継がれる名シーンとして大会を締めくくりました。
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強豪国が敗退した理由や、韓国・トルコ・セネガルといった新勢力が躍進した背景には、それぞれ“戦術の必然”があります。2002年大会をより深く理解したいなら、戦術面の知識があると一気に見え方が変わりますよ。
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大会を揺るがした論争と問題点
チケット販売の混乱と“空席問題”
大会前から大きな話題になったのが、チケット販売のトラブルでした。販売管理を担当したバイロム社のシステムがうまく機能せず、申込みの段階でアクセス障害が連発。さらに「全試合完売」と発表されていたにもかかわらず、実際には大量の空席が目立つという不可解な状況も起こりました。
日本ではサポーターから抗議の声が上がり、横断幕が掲げられる試合もあったほどです。韓国でも同様の問題が発生し、決勝トーナメントでは学生を動員して空席を埋める措置が取られました。
結果的に、チケットの管理体制そのものが問題視され、大会の運営に対する疑問が残る形となりました。
最大の論争:韓国戦をめぐる誤審問題
2002年大会を語るうえで避けて通れないのが、韓国戦で相次いだ判定トラブルです。特に決勝トーナメントでは、世界的な議論を巻き起こすほどの出来事となりました。
● 韓国 vs イタリア(ラウンド16)
この試合では、エクアドル人のバイロン・モレノ主審の判定が大きく批判を浴びました。イタリアのフランチェスコ・トッティ選手がシミュレーションを取られ、延長前に退場処分。さらにゴールデンゴールとなるはずだったトンマージ選手の得点がオフサイド判定で取り消されます。
最終的に韓国が勝利しましたが、その過程には多くの疑問が残りました。
● 韓国 vs スペイン(準々決勝)
この試合でも、スペイン側の得点が2度取り消されるという異例の展開に。1点目は「ボールがラインを割った」と判定され、2点目はファウル扱いに。スペインの選手・スタッフが猛抗議する姿は、今でも映像で語り継がれています。
結果はPK戦の末、韓国の勝利。スペイン国内では「W杯史上最も物議を醸した試合」として扱われることもあります。
FIFAが異例の声明を発表
判定への批判が世界中で大きくなったため、FIFA会長は大会中に異例の声明を出し、「審判技術の改善」を強く指摘。その後の試合では欧州出身の審判を中心に配置するなど、運営側も急遽方針転換を行いました。
この一連の騒動は、今でも多くのファンが“2002年大会の影”として記憶している部分です。
スポンサー・運営面でも課題が続出
大会を支えたグローバルパートナーは世界的な企業が名を連ね、商業面では成功した側面もあります。しかしその裏で、日韓のローカルサポーターとの役割分担や運営体制の違いもあり、調整には多くの時間が必要でした。

大規模イベントの成功と影響力の大きさを実感する一方で、準備や運営の難しさが浮き彫りになった大会でもありました。
大会のレガシー(日本・韓国・アジアに残したもの)
日本サッカーの基盤が大きく前進
2002年大会は、日本サッカーの歴史を語るうえで大きな転機になりました。初のベスト16入りで自信をつかんだだけでなく、組織的な守備、フィジカル強化、戦術理解といった「世界で戦う土台」が一気に整い始めた時期でもあります。
Jリーグの観客動員も増え、サッカー文化がより日常に溶け込むようになりました。ワールドカップが国全体のサッカー熱を押し上げたことは間違いありません。
韓国サッカーの国際的な認知度が向上
韓国代表はアジア勢として初のベスト4入りを果たし、国際的な存在感を大きく高めました。フィジカルを武器にしたスタイルが世界へ強烈な印象を残し、アジアサッカーの可能性そのものを広げた大会ともいえます。
もちろん、判定への議論は残りましたが、それでも韓国が示した走力と組織力は高く評価され、アジアの競争レベル向上につながるひとつのきっかけになりました。
スタジアムの“後利用”という課題
一方で、日韓ともに多額の費用をかけて整備したスタジアムの“後利用”には課題が生まれました。特に韓国では一部の会場で採算性の問題が浮上し、用途をめぐる議論が続くことに。
日本側では、サッカー専用スタジアムとして根付いた会場も多く、Jリーグの成長とともに地域に浸透しやすい環境が整っていきました。
アジアサッカーの価値を世界へ押し上げた大会
2002年大会は「アジアでW杯ができる」ということを世界に証明したイベントでした。それは単なる開催実績というだけでなく、マーケットの拡大、ファン文化の広がり、スポンサー価値の向上など、多方面に良い影響を与えています。

今では当たり前になったアジアでの大型国際大会の開催も、この2002年W杯がひとつの重要な前例となっているのです。
まとめ
2002年の日韓ワールドカップは、アジアで初めて開催された歴史的な大会でした。日本と韓国がそれぞれ課題を抱えながらも準備を進め、多くのドラマと熱気に包まれた1か月をつくり上げました。
日本代表の初ベスト16入り、韓国のアジア勢初のベスト4、強豪国の相次ぐ敗退、そして判定をめぐる議論…。明るい話題と課題の両方が詰まった大会だったからこそ、今でも多くの人に語り継がれているのでしょう。
また、この大会が日本サッカーに残した影響はとても大きく、育成年代からプロレベルまで「世界で戦うための基盤作り」が一気に進んだ時期でもあります。スタジアム整備や地域とのつながりなど、現在のサッカー文化の広がりにも確かに繋がっています。
大会の裏側にあった政治的な駆け引きや運営の難しさも含めて、2002年W杯は“平成を象徴するスポーツイベント”と言える存在でした。振り返ると、あの時代ならではの空気や熱気がよみがえってきますね✨
この振り返りが、当時の記憶を楽しむきっかけになれば嬉しいです。次は、関連する出来事や時代背景も一緒に覗いてみましょう。
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2002年W杯を振り返ると、当時の社会の空気や文化も一緒に思い出したくなりますよね。以下の記事も、同じ“平成の出来事”としてつながりが深いので、ぜひチェックしてみてください。
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よくある質問
- Qなぜ2002年大会は日韓の共同開催になったの?
- A
本来なら日本と韓国がそれぞれ単独開催を目指していましたが、当時のFIFA内部で政治的な対立が強まり、投票でどちらか一方に決めるのが難しい状態でした。そこで、アヴェランジェ会長が“日韓共同開催”という異例の提案を行い、アジア初の共同開催が実現した形です。
- Q韓国戦の誤審は本当に誤審だったの?
- A
イタリア戦・スペイン戦では、得点取り消しや退場判定など多くの疑問が残る判定が続きました。FIFA会長も大会中に「審判技術の改善」を求める異例の声明を出しており、国際的にも問題が指摘されています。後年の調査やメディアの検証でも「重大な誤審があった」と扱われています。
- Q2002年大会は日本サッカーにどんな影響を残した?
- A
日本代表が初めてグループリーグを突破したことで、国内のサッカー熱が一気に高まりました。Jリーグへの関心も強まり、育成年代の強化や戦術理解のレベルアップが進み、現在の日本代表につながる基盤が整っていきました。まさに“日本サッカーの転換点”となった大会です。



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