バブルの余韻がまだ街のどこかに残っていた1991年──。
東京・芝浦に突如現れた巨大ディスコ「ジュリアナ東京」は、まさに“平成の熱狂”そのものでした。
お立ち台の上でワンレン・ボディコンの女性たちが羽根付き扇子(通称ジュリ扇)を振り、
DJが「ジュリアナス〜トキオ〜!」と叫ぶ──。
そんな光景は当時のテレビや雑誌を賑わせ、日本中の若者を虜にしました。
しかし、この伝説のディスコがオープンしたのは、バブル経済がすでに崩壊したあとの1991年。
つまりジュリアナは“終わりゆくバブルの最後の輝き”を象徴する存在でもあったのです。
この記事では、ジュリアナ東京の誕生から全盛期、そして終焉までを時代背景とともに丁寧に振り返ります。
当時をリアルタイムで体験した世代にも、平成レトロを新鮮に感じる世代にも楽しめるように、
わかりやすく、少しだけノスタルジックに解説していきますね💃
ジュリアナ東京とは?設立の背景とオープン当初の様子
1991年5月15日、東京・芝浦のウォーターフロントに誕生したのが、あの伝説のディスコ「ジュリアナ東京」。
正式名称は 「JULIANA’S TOKYO British discotheque in 芝浦」 という、ちょっと長めで上品な名前でした。

運営は、総合商社の日商岩井(現・双日)と、イギリスのレジャー企業・ウェンブリー社の共同出資。
当初は「普通のOLが上品に夜を楽しめる、英国風の社交ディスコ」というコンセプトで企画されたんです。
場所は港区芝浦1丁目、第3東運ビルの1階。
広さは約1200㎡、収容人数はなんと2,000人という巨大空間!
当時から人気だった「芝浦GOLD」などのディスコに対抗する形でオープンしました。
ただし、オープン当時はすでにバブル経済の崩壊が始まっていた時期。
華やかな景気の波が去り、世の中は少しずつ“自粛ムード”へと向かっていました。
そんな中で生まれたジュリアナ東京は、ある意味でバブルの残り香を体現する存在でもあったんです。
イギリス風のコンサバティブな雰囲気を目指していたものの、
次第に「お立ち台」で踊る女性たちや独特のノリが注目され、
気づけば“日本中が知る大ブーム”に発展していくことになります。

ここからは、その店内構成や独自のシステム、そして“お立ち台文化”の誕生へと話を進めていきましょう🪩
店内の構成とシステムを詳しく解説
ジュリアナ東京といえば、まず思い浮かぶのがあのキラキラしたフロア。
まるで映画のセットのように豪華で、入った瞬間に「非日常」が始まる空間でした。
店内に入ると、まず目を引くのが巨大な自動ドア。そこを抜けると、まばゆいライティングと重厚なサウンドが迎えてくれます。
フロア中央にはDJブース、その両脇に設置された高さ約130cmのお立ち台。
実はこのお立ち台、女性専用として設計されていたんです。
お立ち台の向かい側には、男女問わず踊れる「雛壇ステージ」もあり、
照明が当たるたびに観客全体が一体化して盛り上がる──そんな設計になっていました。
音響は最新のボディソニックシステムを採用。床から低音が響く仕組みで、
「音を聴く」よりも「音に包まれる」体験ができたのが特徴です。
さらにレーザー、スモーク、巨大シャンデリアなど、演出も超一流。まさに平成初期の“テクノ豪華主義”でした。
また、VIPルームも複数存在し、
中二階のオープンシート「V1」、ガラス張りの完全個室「V2」、そして女性専用のレディースVIPも用意されていました。
2時間あたり3,000〜4,000円程度のチャージ制で、当時としてはかなり高級な設定です。
入場料は男性5,000円、女性4,500円(週末は変動あり)。
ただし、この金額には3,500円分の飲食チケット(14枚)が含まれていました。
ドリンクや軽食はこのチケットで注文する仕組みで、まさに“平成のキャッシュレス”スタイルですね。
さらに日曜日は「レディースナイト」で女性入場無料!
当時はエイベックスのCDに無料入場券が付いていたこともあり、
音楽業界とのコラボで話題を集めていました。
そして、忘れてはいけないのがDJたち。
メインを務めていたのはアイルランド人のDJデヴィッド・ワードをはじめ、
Anthony Lloyd GulleyやPaul Baynhamなど外国人DJが中心。
彼らの「ジュリアナス〜トキオ〜!」という英語MCが夜ごとに響き渡り、
ジュリアナ東京の“外国っぽい非日常感”をさらに高めていました。
ここから先は、ジュリアナブームを象徴する“お立ち台文化”と“ジュリ扇”の誕生について見ていきましょう🪭
お立ち台文化と“ジュリ扇”の誕生
ジュリアナ東京の象徴といえば、やはりお立ち台。
煌びやかなライトの下、ワンレン・ボディコン姿の女性たちが、羽根付きの扇子──通称「ジュリ扇」を振りながら踊る姿は、平成初期を代表するカルチャーのひとつでした。
当初は「ちょっと大胆な女性たちの遊び場」として見られていましたが、
やがてメディアがこぞって取り上げるようになり、ジュリアナのフロアは“トレンド発信の最前線”に。
テレビのワイドショーやファッション誌では、連日ジュリアナの話題が取り上げられ、
「お立ち台=自己表現の舞台」として若い女性たちの憧れの場所になっていきました。
ジュリ扇は単なる扇子ではなく、当時の女性たちにとっての“マイク”のような存在。
羽根をなびかせながらビートに合わせて振るその姿は、まさに平成の女王たちそのものでした。
今ではそのジュリ扇も、平成レトログッズとして再注目されています。
当時のデザインを再現したモデルも販売されていて、コレクションアイテムとして人気です🪭
🪭 [INNOVATIONFACTORY] ジュリアナ扇子
平成ディスコ文化の象徴「ジュリ扇」を完全再現!イベント用やコスプレにも人気。
✅ Amazonでチェックする | ✅ 楽天でチェックする
ちなみに、当時の夜の芝浦は、煌びやかでありながらも少し危うい空気も漂っていました。
お立ち台の下には“ゲッターズ”と呼ばれるナンパ集団が集まり、
帰りの女性を送ろうと声をかける……そんな風景も“平成の夜”を象徴する一場面です。
このように、ジュリアナ東京は単なるディスコではなく、
社会現象そのものとして平成カルチャーを彩った存在でした。

次は、ジュリアナ東京を支えた音楽──“ハードコアテクノ”と“ハイパーテクノ”の世界に迫っていきましょう🎶
音楽ジャンルの変遷|ハードコアテクノからハイパーテクノへ
ジュリアナ東京を語るうえで欠かせないのが、フロアを支配していた音楽。
開店当初はイタリア発の「イタロハウス」やヨーロッパのクラブサウンドを中心に、明るくおしゃれな雰囲気が漂っていました。
しかし、オープンから数か月が経つと、フロアは一気に変化します。
重低音の効いた高速ビート、甲高いシンセ音、女性ヴォーカルのサンプリング──
そう、それがハードコアテクノの登場です。
この音楽スタイルは、ただのダンスミュージックではなく“熱狂を作るためのサウンド”。
無機質で攻撃的なビートが鳴り響く中、
お立ち台の上でジュリ扇を振りかざす女性たちの姿は、まさに平成初期の狂騒を象徴していました。
そして1993年頃からは、さらにポップでメロディアスな「ハイパーテクノ」へと進化。
ジュリアナ東京が独自に生み出したこのジャンルは、
「ジュリアナテクノ」とも呼ばれ、後のユーロビートやクラブサウンドにも大きな影響を与えました。
当時の人気曲を収録したコンピレーションCDは、エイベックスなどから次々とリリースされ、
家でもジュリアナの熱気を味わえる“平成最強のサントラ”として大ヒットしました💿
🎶 ザ・ベスト・オブ・ジュリアナ(CD)
ジュリアナ東京の名曲が詰まった決定版コンピ。ハードコアテクノ&ハイパーテクノの歴史をこの1枚で。 ✅ Amazonでチェックする | ✅ 楽天でチェックする
もし当時を知らない世代でも、このCDを聴けば「平成の夜」がどんな熱気だったか、すぐに感じられるはず。
まるで時間を巻き戻すように、レーザーライトと歓声の中に引き戻される感覚が味わえます。

次の章では、そんなジュリアナ東京がなぜ衰退していったのか──。
ブームの裏にあった経済と社会の変化を見ていきましょう。
ブームの終焉と閉店までの流れ
あれほどの熱狂を巻き起こしたジュリアナ東京にも、やがて静かな終わりの時が訪れます。
理由はひとつではありません。バブル景気が完全に崩壊し、人々の気持ちが「節約」や「現実」に戻っていったこと。
そしてメディアが作り上げたイメージが、いつしか“過激”“派手すぎる”といった批判へと変わっていったこと──。
さらに、エイベックスが発売した『JULIANA’S TOKYO』シリーズCDに付属していた無料入場券が影響し、
「ちょっと行ってみたい」だけの一見客が増加。
これにより、かつての常連や上客層が離れてしまい、フロアの雰囲気も変わっていきました。
警察の立ち入りや報道の影響も重なり、1993年には象徴だったお立ち台が撤去。
その後、来場者数の減少が続き、1994年初頭に閉店が発表されます。
最終営業日は1994年8月31日。
この日は入場無料の特別営業で、約4,000人ものファンが押し寄せ、
涙と歓声の中で「平成の夜の女王」はその幕を閉じました。
表向きは「栄誉ある撤退」でしたが、実態は経営難。
同時期、若者たちはより個性的でアンダーグラウンドな“クラブ文化”へと移行し、
1980年代から続いた“第二次ディスコブーム”そのものが終わりを迎えたのです。
この出来事は、単なる店舗の閉店ではなく、
バブル文化という時代そのものの終焉を象徴していました。
📘 バブル文化論(書籍)
ジュリアナ東京を生んだ時代背景を深掘りする一冊。経済・ファッション・メディアの三方向から“バブルの正体”を読み解く。
✅ Amazonでチェックする | ✅ 楽天でチェックする

ジュリアナの消滅は、一つの“夜の文化”の終わりであり、同時に平成という新しい時代への転換でもありました。
その象徴的なラストシーンは、今も多くの人の記憶に焼き付いています。
その後の復活イベントと遺産
1994年に惜しまれつつ閉店したジュリアナ東京ですが、その伝説は終わりませんでした。
閉店から10年以上が経った2008年、エイベックス創立20周年を記念して開催されたイベント
「JULIANA’S TOKYO 20th Anniversary」がディファ有明で行われ、往年のファンが再び集結しました。
さらに2018年には、大阪・堂山町にて常設店舗「JULIANA’S TOKYO BRITISH DISCOTHEQUE IN OSAKA」がオープン。
本家の雰囲気を忠実に再現した店内で、ハイパーテクノが再び鳴り響きました。
残念ながら、新型コロナウイルスの影響により2020年5月に閉店しましたが、
「平成の熱狂をもう一度味わいたい」という声は今も絶えません。
また、TikTokやYouTubeでは、ジュリアナ東京の映像が“平成レトロ”として再び注目を浴びています。
ジュリ扇を片手に踊る姿は、もはや平成カルチャーを象徴するアイコンのひとつ。
ファッションやメイクの面でも「平成ギャルリバイバル」として若い世代が再評価しています。
こうしてジュリアナ東京は、単なるディスコを超えて、
日本のポップカルチャー史の一部として語り継がれる存在になりました。

その熱気や自由なエネルギーは、時代が変わっても確かに生き続けています。
まとめ|ジュリアナ東京が残した“平成の熱狂”
ジュリアナ東京は、単なるディスコではありませんでした。
そこには「女性の自己表現」「音楽の進化」「夜の文化の解放」といった、平成初期を象徴するエネルギーが満ちていました。
お立ち台でジュリ扇を振る姿、響き渡るハードコアテクノ、
そして誰もが輝ける夜のステージ──それはまさに“バブルの残り火”が生んだ奇跡の3年間でした。
時代が移り変わり、クラブカルチャーやSNSの時代になっても、
ジュリアナの自由でハッピーな空気は、今なお多くの人の心に残っています。
あの頃の熱狂をもう一度感じたい人は、ぜひ平成の象徴アイテムたちを手に取ってみてください🪭
🛍️ 平成ディスコ文化をもう一度感じるおすすめアイテム
🪭 [INNOVATIONFACTORY] ジュリアナ扇子
平成ディスコ文化の象徴「ジュリ扇」を完全再現!イベント用やコスプレにも人気。 ✅ Amazonでチェックする | ✅ 楽天でチェックする
🎶 ザ・ベスト・オブ・ジュリアナ(CD)
ジュリアナ東京の名曲を集めた決定版。あの“ハイパーテクノ”の熱狂がよみがえる。 ✅ Amazonでチェックする | ✅ 楽天でチェックする
📘 バブル文化論(書籍)
ジュリアナ東京を生んだ時代背景を解説。経済・メディア・ファッションから“平成の光と影”を読み解く。 ✅ Amazonでチェックする | ✅ 楽天でチェックする
📚 あわせて読みたい
- バブル景気の仕組みと崩壊の理由をやさしく説明|昭和から平成への転換点
- 平成を彩った“ギャル”とは何か?時代ごとに見るファッションとマインドの進化
- 平成を代表した国民的アイドル「SMAP」|功績・伝説・その後の軌跡
- GLAYとは?平成を代表するロックバンドの軌跡と30年の進化
よくある質問
- Qジュリアナ東京と芝浦ゴールドの違いは?
- A
芝浦ゴールドはよりアーティスティックでハイソな雰囲気、ジュリアナは開放的で“大衆の熱狂”が魅力でした。
- Q「ジュリ扇」は今でも買える?
- A
はい! 当時のデザインを再現したモデルがAmazonや楽天で販売中です。
上のリンクからチェックしてみてください🪭
- Q現在「ジュリアナ東京」は存在するの?
- A
常設店舗はありませんが、イベントやクラブで“ジュリアナナイト”が開催されることがあります。
YouTubeやSNSでも当時の映像が人気です。




※当サイトはアフィリエイト広告を利用しています。リンクを経由して商品を購入された場合、当サイトに報酬が発生することがあります。
※本記事に記載しているAmazon商品情報(価格、在庫状況、割引、配送条件など)は、執筆時点のAmazon.co.jp上の情報に基づいています。
最新の価格・在庫・配送条件などの詳細は、Amazonの商品ページをご確認ください。